「笑い」とユーモアは絶望をはねのける

あなたはこれまでの人生の中で、どうしようもない苦境に陥ったり絶望の淵に立たされたりするような経験をしたことはあるでしょうか?

私にもこれまでに人並みの苦難というものがありますが、それらの障害を笑いやユーモアを使いながら乗り越えてきた経験をしてきました。

今回は、私自身のそのときのエピソードを交えながら、笑いやユーモアが困難を克服するためのひとつの方法となることをご紹介します。

大学院は出たけれど・・・

私は大学を卒業した後、大学の研究者になることを目指して大学院まで進学しました。

大学院では、主に新聞やインターネットをはじめとするマス・メディアを対象として研究を行っていました。

大学院を卒業すると大学の研究者としての道を歩むことができるのですが、昔とは違って大学に研究者として雇われるためには博士号を取得する必要があり、その資格をもってはじめて大学教員に向けた就職活動をすることができます。

博士号は大学に博士論文というものを提出し、教授会での審査を経て取得することができます。

ただ、この博士論文は、単に文章を書いて提出すれば良いというものではなく、提出のための要件というものを満たしておく必要があります。

たとえば、学会という研究発表会でみずからの研究内容の成果を報告したり、学会誌といわれる研究者の購読する研究雑誌に論文が掲載されたりするなどの研究業績を蓄積し、それらを一定以上クリアすることによって、はじめて博士論文を提出する資格が得られるのです。

さて、私も大学院に進学してから10年近くかかって研究業績を積み上げ、ようやく後は博士論文を提出するだけというところまで漕ぎ着けたのですが、そのときに残念ながら指導教授が急逝してしまうという憂き目に遭遇したのです。

提出した博士論文が教授会における審査を通過するには、どうしても指導教授の後ろ盾が必要となります。

しかし、新しく担当となった指導教授の下では今まで私が積み重ねてきた研究業績は認められず、最初からすべて作り直しということになったのです。

結局、このまま在籍していても博士号が取得できる見込みがなかったため、私は単位取得退学という形で大学院を去るという選択を余儀なくされたのです。

それは10年近く積み上げたもののすべてが一瞬にして消え去った瞬間であり、大学の研究者として生きるという私の考えていた人生が閉ざされてしまったことを意味しているのです。

絶望の果てに見えてきた風景

また、私は大学院に進学する際に奨学金というものを借りて研究活動を行っていましたが、当然ながらこれは借りたお金であるため、返済の義務があります。

大学院の在籍中に借りたお金は総額600万円ほどにのぼり、このお金の返済がが大学院を退学してから求められるようになりました。

大学院の最終課程にまで進んで研究に打ち込んだにもかかわらず、結果的に残ったのは大学での定職を見つけるための資格すら得られない無職としての自分と、10年かかって作った社会では何の役にも立たない研究業績、総額600万円にも上る奨学金という名の借金だけだったのです。

10年にわたって取り組んできたことがすべてなくなってしまったことで、私は目の前が真っ暗になりました。

正直、自殺も考えましたが、奨学金の連帯保証人は両親であったため、自分が死ねばその借金の取り立ては両親にいくためにその選択すらも私には与えられていませんでした。

また、そこから一般企業に就職しようとしても、30歳を超えた社会人経験のない大学院卒の人間は企業的な人材としては使いにくいということで忌避されます。

自分の人生が完全に立ちゆかなくなってしまい、自己嫌悪と無気力な日々を過ごす毎日。

本当の意味で何もかもなくしてしまった私ですが、そのときに自分が感じたのは、「アッハッハ、なにそれ!?」という「笑い」でした。

人間、ここまで徹底的に何もかもがなくなる経験をすると、本当に笑うことしかできない状況になります。

絶望の中で笑うことしかできない自分ですが、それでも、生きている自分がいるという感覚だけが残りました。

しかし、この笑いが私の次の展開を与えてくれるきっかけとなったのです。

「笑い」が苦境を乗り越えるための活力を与える

指導教授が亡くなる直前まで取り組んでいたのは、人間の笑いを客観的・数量的に測定する「笑い測定機」という装置の開発です。

この笑い測定機はまだまだ開発途中の段階にあり、完成までは程遠い状況だったのです。

人生の目標も何もかもを失ってしまった私は、せめてこの笑い測定機だけは自分の満足のいく形にしたいと考え、残された大学院のゼミ生ととももにその開発を続けることにしたのです。

その後、笑い測定機の研究・開発を続けながら人間にとっての笑いの存在意義やそのあり方、笑いの有効な活用法などについて考え続けるようになりました。

「笑い」のひとつの効用として、自分の中の凝り固まった考え方をリセットするというものがあります。

私の例でいえば、10年以上にわたって求めてきた研究者としての生き方に執着があったわけですが、その道が閉ざされたときに「何でそんなものにこだわっていたのだろう?」「生き方はそれだけではないはず」と笑って捨て去ることができれば、とても気持ちが楽になるという経験をしたわけです。

また、苦労や苦難に遭遇しながらも、それでもなお自分がそれについて笑いながらときにはユーモアを交えて語ることができるのは、とても強い人間なのではないかと考えるようになったのです。

このように、絶望の底にいた私にとって「笑い」というものは単に「何か面白いことを見聞きして感じる楽しいもの」などではなく、危機に瀕した自分の人生を正面から見つめながらも、それに対してどれだけポジティブな気持ちや方策がそこから得られるのかという「自分が生きること」への挑戦そのものなのです。

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