大学院ってどんなところ?――「研究」と「勉強」の違い

私は大学を卒業してから大学院に進学して研究を行っていたのですが、みなさんはこのことに対してどんな印象を持たれるでしょうか?

私が「大学院に行っています」というと、「ずっと勉強をするなんて真面目なんですね」とか「大学を卒業してからわざわざまた勉強するなんてよくやりますね」といった、とにかく何だか大変そうというイメージを持たれることが多かった記憶があります。

実際に大学院にいるとそのような感じはしないのですが、どうやらそこには大学院における「研究」といわゆる「勉強」というものに対する認識のズレがあるように感じます。

本ページでは、大学院のしくみをご紹介するとともに、私の感じてきた「研究」と「勉強」との違いについて述べていきます。

「大学」と「大学院」との違い

今の時代、高等学校から大学に進学する人は多いため、大学が4年間通う高等教育機関という位置づけであることはみなさんご存知のことと思います。

大学ではほとんどの場合、4年目になるとその間の勉強の集大成としてみずからの興味のあるテーマで「卒業論文」を書き、それを大学に提出して認められれば大学を卒業(修了)することができます。

大学を卒業する人はそのまま企業に就職したりその他社会に出る人が多いので、さらに大学院に進学する人はかなり少数だといえます。

大学院に進学する場合には、主に大学卒業時に自分が選定した研究テーマをさらに深めるために研究活動を続けていきます。

さて、この大学院は2つに分かれていて、修業年限が2年の「修士課程」(マスター/Master)と同じく修業年限が3年の「博士課程」(ドクター/Doctor)の2つがあります。

実は、ここに挙げた修士課程と博士課程という名前は通称で、正式にはそれぞれ「博士課程前期課程」「博士課程後期課程」という長い名前になっています。

要は「博士号」を修得するために年限がそれぞれ2年の前期課程と3年の後期課程に分かれているというしくみになっているわけです。

なお、博士課程前期課程、いわゆる修士課程は修士論文を提出することで「修士号」を修得してその課程を修了することができます。

博士課程後期課程でも博士論文を大学院に提出して「博士号」を修得すれば課程を修了することができるのですが、この博士論文を提出・審査してもらうためにはある程度の研究業績の蓄積が必要であることと、提出した論文が博士論文として認められるにはかなりの難しさがともなうため、博士課程後期課程の単位だけ修得して退学することも多い状況があります。

そのため、私のように大学院の博士課程後期課程まで進学したものの博士論文を提出せずに大学院を出てしまった場合、その人の履歴書の学歴欄には「●●大学大学院●●研究科博士課程後期課程単位取得退学」と記載することになります。

大学院の「退学」の背景には実はこのような事情があるのですが、一般の人には何が退学なのかがよく分からない学歴となる上、退学という言葉の響きにはあまり良いイメージがないため、その意味でも大学院というところが理解されにくい部分があるといえるでしょう。

大学院における「研究」と「勉強」の違い

大学院では「勉強」ではなく、「研究」が行われます。

一般の人からすると「どちらも同じようなもんじゃないの?」と思われるかもしれませんが、実はそこには大きな違いがあります。

勉強というと、多くの人は高等学校までの勉強、すなわちたくさんの事柄を暗記したり計算したりすることの経験から、とにかく勉強は大変という印象を持っているのではないでしょうか。

これに対して、大学院における「研究」は、既存のことを一所懸命に覚えるというよりも、ある出来事やテーマについていまだに分かっていないことが存在しており、それを明らかにするためにこれまでの研究の成果や分かっている情報を収集しながら自分なりの考え方を仮説として提示し、その検証を行うことから結論を導き出すという作業になっていきます。

もちろん、大学院の研究でもあるテーマに関連する専門用語を覚えたり計算をしたりする勉強の要素も含まれますが、それは研究の中で分からないことを明らかにするための手段として、すなわちそれが必要だから勉強するという部分にもっとも大きな違いがあります。

私自身の恥ずかしい経験ですが、大学院に入って間もないころ、私はまだ「研究」というものがどういうものかがよく分からない状況で大学院のゼミに参加していました。

大学院のゼミでは、それぞれの研究テーマについていろいろとああでもないこうでもないと議論が展開されます。

それで、ひとしきりの議論が終わったときに、私は「先生、そのテーマについていろいろな理論や仮説があるのは分かったのですが、結局、何が正解なんですか?」と尋ねたわけです。

そのとき、指導教授からはあきれた表情で、「板村くん、君はこれまでの議論の時間をムダにするつもりなのか?」と言われてしまったのです。

そのときは、自分がなぜそのようなことを言われたのかがまったく分からなかったのですが、要は、あるテーマで分からないことや不明なことがあるのでそれを少しでも明らかにしようとしてこれまで分かっていることやさまざまな仮説・理論を出して、まさにその「正解」にたどりつくためにこれまで議論してきたにもかかわらず、私は「その正解をさっさと教えてくれ」と尋ねてしまったわけです。

ここで私が指導教授に対して尋ねた「その正解を教えてほしい」という考え方や態度にこそ、私たちがこれまで学校で行ってきた問題とその答えが最初から分かっているような「勉強」というものの特徴があらわれているといえるでしょう。

これが「研究」の場合は、ある研究テーマについて分からないことや不明なことに対して、その問題設定をどのように行うのかという本当に最初の部分からスタートします。

その問題を設定した後、これまで分かっている理論やデータなどをいろいろと引っ張り出して組み合わせながら、その問題の正解となると考えられる仮説を自分で作り出し、その仮説を検証することを通して解答へと至る道筋を自分で導き出していきます。

これらの一連の取り組みこそが「研究」そのものを指していて、それはすべてを自分で判断しながら決めていくところに「勉強」との違いがあるわけです。

大学院で研究することの意義

社会の中でも「大学院において研究することは何の役に立つのか?」という質問はよく出てくるところです。

これについては、理系の分野であればたとえば新しい素材の研究開発やシステムの構築などの形で社会に貢献できるところがありますし、実際、理系では大学院まで進学することが企業に就職するための条件となっていることも多いため、その意味では大学院で研究することはたいへん意味のあることだと思います。

それに対して私が所属していたような文系の分野であれば、直截的に社会に貢献できる部分は少ないかもしれません。

ただ、文系の分野でもある社会的な事象や出来事、研究テーマについてそれをどのように考えれば良いのか、どのように問題設定をすればそれに対する「正解」が導き出せるのかという多角的な視点や考え方を身につけるという部分では理系と変わらないといえるでしょう。

また、長い人生の中では、ある出来事や自分の中でじっくりと考えてみたいということも出てくると思います。

実際、社会人になってある程度経験を積んでから大学院に戻ってきて、それまで自分が考えたかったことを研究という形で取り組んでいる人も私自身も知っています。

このように「自分の考えたいことを考える」ということを考えた場合、大学院が場所や資料を提供してくれるという役割を果たす意味でも大学院が存在するひとつの意味があるのではないかと考えています。