普通の「笑い」と「作り笑い」との違い

本サイトでは、心身の健康に役立つ「笑い」のチカラを引き出すために、あなたに積極的に笑うことをオススメしています。

ただ、「面白くないのに笑うことができないから困っている」という意見もよく聞かれます。

しかし、たとえあなたが「面白い」「おかしい」と感じていなくても、私たち人間はみずからの意思で「アッハッハ」と笑うことができます。

このような笑いは「作り笑い」と呼ばれますが、何かの刺激を受けて行うようないわゆる普通の笑いとは何か違いがあるのでしょうか。

今回は、普通の笑いとみずから行うような作り笑いの違いについて考えてみましょう。

「作り笑い」でも「笑い」の仲間なのです

まず、私たちが何か刺激を受けて自然発生的に行う笑いを、ここでは一応「普通の笑い」と呼ぶことにしましょう。

それに対して、面白くもなんともないのにみずからわざわざ笑うような笑いを「作り笑い」と捉えることにします。

さて、このふたつの笑いには、その効果に何かの違いはあるのでしょうか。

通常の感覚であれば、作り笑いよりも普通の笑いの方が心身の健康に良さそうな気がしますが、実は、「笑い」を運動量という観点で捉えた場合、作り笑いであっても普通の笑いとその効果には違いがないということが分かっています。

ここで一度で良いので、あなたも「アッハッハッハ」と大声で笑ってみてください。

実際に笑ってみると分かるのですが、面白くもなんともないのにみずから笑うというのはかなりの「しんどさ」や「大変さ」を感じるはずです。

では、私たちが何かで普通に笑ったときのことを思い返してみると、どうでしょうか。

たとえば、あなたが普通に腹を抱えるぐらいに大きく笑ったとしても、先程のような自分でわざわざ笑ったときのような「しんどさ」や「大変さ」を感じることはほとんどありません。

どちらも同じ「笑い」という動作をしているにもかかわらず、どうしてこのような感じ方の違いがあるのでしょうか。

なぜ、普通の笑いをしたときにはどれだけ大きく笑っても「しんどさ」や「大変さ」を感じないのかというと、実は、普通に笑ったときには脳内で「βエンドルフィン」という快楽物質が分泌されているからなのです。

より正確にいうならば、人間は普通の笑いが生じたときに、脳内にそのような快楽物質が分泌されることによって、強制的にポジティブな「快楽」の感情を抱かされるようになっているのです。

「アッハッハ」と大きな声を出すような普通の笑いであっても、身体にとってはあなたが感じたような「しんどさ」や「大変さ」はあるはずなのですが、そこに快楽物質が分泌されていることによってそれらの感情が強制的に消去されてしまっているのです。

以上のことから、普通の笑いと作り笑いではあなたの感じ方に違いはありますが、その運動量としてはほとんど変わらないため、作り笑いであってもみずから「アッハッハ」と笑うことには心身にとって良い効果があるといえるのです。

「作り笑い」の価値が低く見られている現状

いわゆる「普通の笑い」に比べて「作り笑い」は、一般的にどうもその価値が低く見られているような風潮があります。

具体的には、「面白さ」や「楽しさ」を感じて笑うことこそが「本当の笑い」であって、それ以外の笑いには価値はないというような捉え方をする人が多いような気がします。

私自身、本サイトで何度も取り上げているように、みずから笑おうとすることの重要性をこれまでもお伝えし続けていますが、その中でも自分でわざとらしく「アッハッハ」と笑うのは「本当の笑い」ではなく、そんなことには意味がないと言われることが多々ありました。

しかし、このような作り笑いを「笑いの効果」という観点から考えた場合、たとえ「作り笑い」であっても充分にその役割を果たしていることは評価をするべきだと考えています。

たとえば、顔の表情の作り笑いである「愛想笑い」というものがあります。

この愛想笑いは、あなたが「楽しい」「面白い」などの感情をまったく抱いていなくても作ることができます。

そのため、あなたが目の前の相手にどんなに嫌な感情を抱いていたとしても、愛想笑いを浮かべることによって相手との衝突を防ぎながらスムーズな人間関係が構築できたりさまざまな問題が回避できたりといった効果を得ることができます。

逆に、もし、あなたが自分の感情にしたがった「本当の笑い」しか認めず、そのようなあまり好きではない相手に対して自分の気持に正直になって相手をバカにしたような笑いしか向けないのであれば、人間関係はうまくいかず、円滑に物事が進められないというおそれも出てきます。

どのようなときにどのような笑いを行うかという笑いのTPOが適切であるならば、たとえ作り笑いであっても、それは笑いの効果を充分に果たしているといえるのです。

「楽しさ」「面白さ」を感じる笑いだけに価値があると捉えるのではなく、そのような「普通の笑い」もみずからの意思で行う「作り笑い」もどちらも同じ「笑い」の仲間であると考えて日々の生活の中での笑いを実践していくことこそが、もっとも重要なことなのです。