研究活動のための読書法――「文献」という考え方

大学院では研究活動を行うためにさまざまな知識を吸収して活用する必要があり、そのための手段としての「読書」は必要不可欠だといえます。

実は、研究の上で求められる読書というものには、ある程度の慣れやコツというものを知っておく必要があるのです。

私自身、このことを知らなかったため、研究活動をする上で求められる読書というものにかなり悩まされましたし、ときには苦しんだ経験もあります。

今回は、研究活動を進めていくための読書について取り上げ、私自身の経験もふまえながらどのように本を読んでいけばよいのかについて解説していきます。

専門書を読むためのコツ――俯瞰的に見て重ねる

大学院で研究活動をする上での読書というものは、自分の研究テーマやそれに関連する周辺領域の専門書および論文を読むことが中心になってきます。

この専門書というものは、そもそもその分野の研究者が読むことを前提として作られていますので、当然ながらその内容は専門家向けの用語が数多く用いられています。

私自身もそのような専門書を読むという経験をしてきましたが、これがその読み方に慣れていないとなかなか難しいところがあり、下手をすると途方にくれてしまうということもあります。

たとえば、大学院に入りたての頃や研究活動を始めたばかりの状況の人にとっては、その本や論文を読もうとしたけれども何が書いてあるのかがさっぱり分からないということが出てきます。

実際、私自身も大学院に入学した当時、授業の中でひとつの専門書を取り上げてそれをみんなで読みあわせをする機会があったのですが、その書籍を読んでみてもそこで何が言われているのかがほとんど分からないという状況によく置かれていました。

私たちが小説などの一般書籍を読む際、もし、その内容が分からなかった場合はじっくりと時間をかけて何度も文章を読み返して、そこに何が書かれているのかをしっかり理解しようとすると思います。

これと同じ読み方を自分の読めない専門書に対して行ってしまうと、何度も読み返すことで内容を理解できれば良いのですが、そうでない場合にはやがてその難解な内容を読み解くことが研究の目的のように思えてきてしまい、そこから抜け出せなくなるという状況に陥ってしまいます。

そうなると、いつまで経っても研究が進まないということになってしまうのです。

なぜ、自分が専門書が読めないのかというと、そこには大きく2つの理由が考えられます。

ひとつはその分野で使われている専門用語あるいは物事や出来事の考え方・捉え方といった常識的な知識が不足しているという知識レベルの問題です。

この場合は、自分がその専門書を読むための知識が不足しているということなので、その専門書を読むことを一度中断し、その分野の入門書や概説書などで基本的な知識を勉強して習得することが必要となります。

もうひとつは、それと関連していますが、そもそもその専門書で問題としている研究目的やその意義についての理解が及んでいないという場合です。

これは言い換えると、研究としての問題意識の持ち方や問題の設定の仕方というものにまだ自分が慣れておらず、そもそもその専門書で何を問題としていて、なぜそれを考えなければならないのかを自分が理解できていないということが考えられます。

この場合は、その専門書に書かれている研究の目的や意義、その著者が物事や出来事をどのように捉えようとしているのかをはっきりとさせることや、場合によってはその問題意識が自分で持てるようになるまで時間を置くことも必要となります。

専門書というものは、一般の書籍に比べると内容が難しいことが多いのですが、その研究者がある物事や出来事に対して抱いた興味や関心、問題意識を明らかにしようという目的で書かれている点については共通しています。

ですので、読み手が専門書を読み解くためには、まずはそれがどのようなことを問題としていてそれをどのように分析・考察しようとしたのかなど、それが明らかにしようとしている目的や意義というものをしっかりと理解することが求められるわけです。

以上のように、専門書を読むためには、その書籍や論文の明らかにしようとする目的というものを意識して、少し離れた場所から眺めて見るような感覚を持つことが重要だといえるでしょう。

「古典」を読み解くことの意義

数ある専門書の中でも特に取り組みにくいのは、かなり過去に執筆されたいわゆる古典と呼ばれるものでしょう。

私は社会学を専門としていますが、この分野にはいろいろな社会学者がいて、そこではさまざまな理論が提唱され、その内容も多岐にわたっています。

私自身も社会学の領域でよく取り上げられる古典というものをいくつか読んでみましたが、とっつきにくいし読んでも理解できない部分も多々あるし、なぜそれを読む必要があるのかについてはよく分からないところがありました。

ただ、古典を読む中でひとつ感じたのは、結局、その書籍や論文を執筆した研究者が当時どのようなことに疑問や問題を感じて、それを彼らがどのように分析・考察して表現しようとしていたのかという考え方の部分を理解すればそれで事足りるのではないかということです。

たとえば、社会学を学ぶ際に必ず取り上げられる概念として、「ゲマインシャフト」(Gemeinschaft)と「ゲゼルシャフト」(Gesellschaft)というものがあります。

ドイツのフェルディナント・テンニースという社会学者が1887年の著書で提唱した概念です。

どちらも社会で人びとが構成する共同体をあらわすための概念で、ゲマインシャフトは家族などの血縁、地域などの地縁、人びとの愛情や習慣で形作られる自然発生的な共同体をあらわし、ゲゼルシャフトは契約や法律、制度などのような人びとの意識や意思による理性的な結びつきで構成された社会や共同体のことを指しています。

テンニースは社会や共同体というものには時と場合によって成り立ちの方法が違うのではないかという問題意識を抱き、この2つの考え方でそれを説明しようとしたわけです。

それで、この捉え方が何の役に立つのかということなのですが、ゲマインシャフトの特徴のある共同体といえば、たとえば現在の日本でも地方にある田舎や村落などで形成されるものが思い浮かびますし、ゲゼルシャフトの特徴をそなえる共同体といえば、都市や法律国家などの形を考えることができます。

この理論と概念は、今から130年以上も前に提唱されたものです。

130年も経過した現在でも、これとまったく同じ言葉で私たちの現代社会や共同体のあり方を説明できてしまうということに、私たちは驚くべきなのです。

テンニースが生きていた時代から130年も経過していれば、いい加減、自分たちの社会はかなり進歩したのではないかと私たちは考えがちですが、その当時の言葉や概念で説明できてしまうということは、その社会のあり方や形態そのものがあまり変化していない、すなわち私たちはいまだ近代という時代の枠組みの中にいることのあらわれだといえます。

このように現代でも通用する考え方をそなえた古典、すなわち時代を越えてもなお生き残る古典こそ、本当の古典と呼ばれるにふさわしいものだと私は考えています。

専門書は内容が難しいからよく分からないという捉え方も一面の真実ではありつつも、当時の研究者がある物事や出来事のどういうところに疑問を感じて、それをどのように捉えて考察・分析しようとしたのかは共通していますので、その概念や分析方法を自分の研究テーマに適用してみるという意識が出てくるようになれば、「専門書を使う」という研究者の考え方につながってくるわけです。

専門書の力を借りつつ前に進む

以上、専門書に対する読書の仕方とその考え方について、私なりの経験をふまえながら説明をしてきました。

私自身、専門書については何度も頭を悩ませながら取り組んできて、自分なりの読み方や使い方をいろいろと模索してきました。

研究というものは、すでに行われている先行研究を参考にしながら前に進むことが必要です。

専門書には難解な部分も含まれることもありますが、自分と同じ研究を志す者という同じ目線に立った上で、その研究で明らかにしようとした目的と手段を知ること、さらにはそれを自分の研究のフィールドに持ち込もうとする意識につながってくれば専門書を読むことの目的は果たされたと考えてよいでしょう。