大学におけるレポート・論文の意義――コピペ問題を考える

前回までで説明してきたように、大学や大学院における研究ではレポート・論文を作成する能力というものは非常に重要な意味を持つことになります。

ただ、その一方で、近年、大学生がレポートを作成する際にインターネット上で誰かが書いたものをそのままコピーして提出するという、いわゆる「レポートのコピー&ペースト(コピペ)問題」が指摘されてきています。

今回は、この大学におけるレポートのコピペ問題について考えてみたいと思います。

「レポートのコピペ問題」とは

大学に関わった経験のある方であれば、一度は大学生の「レポートのコピペ問題」というものはどこかで見聞きしたことがあるのではないでしょうか。

大学教員が学生に課題としてレポートの提出を求めることがあるのですが、学生から出されてきたレポートを見るとインターネット上で誰かが書いた内容や意見がそのまま貼り付けられているわけです。

かつては学生の誰かが書いた内容を他の学生が丸々書き写して同一のレポートが提出されてくることがある程度でしたが、インターネット環境が発達した現在では、1人や2人どころか何十人という規模でインターネット上からレポートの内容を取ってきてコピーしてくるという状況が発生しています。

大学の教員からするとそのようなレポートが提出された場合には、評価をどのようにすれば良いのかについて頭を抱えることになります。

というのも、インターネット上からコピーされてきたレポートの文章というものはその学生が書いたものではなくインターネット上の誰かが書いた内容や意見であるため、たとえそれを大学教員がチェックしたところで何を評価しているのかが不明ということになってしまうからです。

そのため、学生から提出されてきたレポートにおいてその内容がインターネット上からの丸写しであることが発覚した場合、評価をしなかったり単位を認定したりしないというような対処をすることが多いようです。

それに対して学生の方では文章の言い回しを微妙に変えた内容をレポートとして提出するなど、大学教員と学生との間ではレポートという課題をめぐってお互いへの対策をどのようにするのかという不毛な応酬が続けられることになるのです。

ただ、大学教員であった私の立場から言わせてもらうと、正直、まとまった内容がある程度書ける学生というものはごく少数に限られていることと、キーワードで検索をすればコピー元の文章というものはすぐに分かるので、そのレポートがコピペされたものかどうかを判別することは非常に簡単なことだといえます。

大学の「知」のあり方が問われている

以上のような大学におけるレポートのコピペ問題ですが、私個人としてはそれはこれまで自明とされてきた大学の「知」のあり方が問いかけ直されていることを象徴するような出来事として捉えています。

どういうことかというと、大学には各分野の専門家として教授等の大学教員がおり、そこに教えを請う学生が参集して知識の伝達が行われていたという状況があったわけです。

そのような大学という場所において、学生は専門的な知識を持っていない未習熟の立場にある人びとであるのに対し、大学の先生はその道の専門家としてのいわば「知の権威」のような役割を果たすことになります。

そのため、大学ではその先生が問題の設定の仕方やその答えの出し方などを握っており、そのような関係において大学は高等教育機関として機能してきました。

しかし、インターネットの発達によってさまざまな知識がウェブ上やサイト上に集まるにつれて、たとえ専門的な知識であっても検索すれば誰でもそれに関する詳細な情報を知ることのできるような時代に変化してきました。

インターネットやスマートフォンで情報の検索が当たり前となった現在、たとえ分からないことがあったとしてもわざわざ大学の先生に聞かなくても「google先生」に検索で尋ねれば「いつでも」「どこでも」「誰でも」が情報にアクセスして答えを得ることができるようになったわけです。

そうなると、それまで大学の先生が握っていた専門的知識や問題の設定方法およびそれらの答えなど、いわば大学教員の専売特許のような立ち位置が確保できなくなってきます。

そのため、学生のレポートのコピペ問題とは、そのような大学における「知」のあり方が相対化されたことによってその役割が変容してきていることを象徴的にあらわしているのではないかと私は考えています。

さて、私が学生にレポートの課題を出すときには、インターネット上の内容をコピペすることをむしろ推奨していました。

ただし、コピペは推奨をしますが、それをそのままレポートに書くと「盗用」や「剽窃」になるので、レポートに書く際には「引用」という形で出典を記載することと、それをふまえた上で自分が発見したり思いついたりした意見については自分の言葉で書くように指導をしていました。

なぜかといえば、結局、ある物事や対象に対する自分の考え方というものは誰かの考え方が多数集積されたものが背景にあることが前提ですし、それがなければ自分の新しい視点や考え方、発想というものは出てこないからです。

あるテーマについてレポートを書く場合にはインターネット上を検索してできるだけ多くの情報を集めることそのものが勉強ですし、それをふまえた上で他者の意見と区別をつけながら、そこで自分がそのテーマについてどのような新しい意見や発見、論理展開をしていくのかがレポート作成においては真に必要なこととなるのです。

今後の大学の役割とあり方

レポートや論文を作成することの意味や意義は、大学の役割やあり方と深く関係しているものだと私は考えています。

レポートや論文を書くことは、研究における新たな発見やその内容を先に進めるためには必要不可欠な活動だといえます。

そのため、レポートや論文が研究の様式に沿って書けるかどうかが大学の研究を進展させる際にはとても大切なことだといえます。

ただ、大学生に対していきなりレポートや論文を書いてくださいと言っても、なかなかできるものではありません。

レポートを書くためには、何をどのようにすればよいのかという目的とそのための具体的な方法を指導することが求められます。

そのような指導がないまま学生がレポートを書こうとすると、白紙の紙に対してとにかく文字を埋めることが目標となってしまうためにコピペの横行につながってしまいます。

インターネットが社会に広がり、人びとの情報に対するアクセスが容易になっているからこそ、そのような社会の中で大学がどのような役割を果たすことができるのかやインターネットではできない新たな存在意義を確立することが改めて問いかけられているのだといえるでしょう。