「笑い」を真面目に考えるというユーモア
あなたは「トリビアの泉」(フジテレビ系列)という番組が放送されていたのを知っているでしょうか?
直接、私たちの生活には何の役に立たないけれども、思わず「へぇ」と言ってしまうくだらない雑学ネタを集めて検証し、その感心の度合いを出演者のゲストに評価してもらうという番組です。
実は、かつて私の恩師である木村洋二がこのテレビ番組に「笑い」というテーマで2回ほど出演したことがあります。
今回は、笑いを真面目に追究する姿勢がひとつのユーモアとして表現されている事例としてこの番組を取り上げてみましょう。
「笑い」の研究者が作る一番面白いギャグ
最初のテーマは、「『人が笑うという行為』を学問として研究している人達が作る一番面白いギャグは?」というものでした。
このときに出演した研究者を順に紹介すると、恩師の木村洋二(関西大学)、蔵琢也(京都大学)、羽鳥徹哉(成蹊大学)、北垣郁雄(広島大学)、山内志郎(新潟大学)の5人です(所属は当時)。
このそうそうたるメンバーが一番面白いギャグを作るために一堂に会して議論を行うわけですが、一般の人にはほとんど理解できない難しい概念や理論を使いながら何時間も真面目に「笑い」とユーモアの仕組みやその構造に関する話し合いが続きます。
その議論は10時間以上にもおよび、ようやく一番面白いギャグができあがります。
結果、できあがったギャグは、大勢の人びとの前で、「青年の主張。私は人一倍性欲があります」と宣言することでした。
残念(?)というか当然ながら、その場に集まった人からはまったく笑いは起きませんでした。
なお、このとき出演した恩師から直接聞いた裏話になりますが、議論を重ねた結果で最初に作ったときのギャグはもっと面白かったらしいのですが、ちょうどそのときに起こっていたイラク戦争やフセイン大統領(当時)を題材にしたものだったために、番組側からストップがかかって違うものに差し替えになったとのことでした。
「笑い」の研究者が作る一番面白くないギャグ
次に出演したときのテーマは、最初とは逆に「『人が笑うという行為』を学問として研究している人達が作る一番面白くないギャグは?」というものです。
再度、5人の研究者が集結して白熱した議論を交わすわけですが、その話し合いは前回同様10時間以上にもおよびます。
その結果、できあがったギャグを100人の前で披露します。
具体的には、「この板、痛~い」「この屋根、や~ね~」「このクツ、苦痛~」というくだらないダジャレ3連発の後に、「このセメント、セメント」と発言するというものでした。
実際、まったく面白くないギャグだといえます。
ダジャレという形式を取っていることから、一応ギャグではありますが、最後のオチの部分がダジャレになっていないために、その場でそれを見聞きしていた人は「よく分からない」という状態に陥ったことでしょう。
ただ、彼らが作った「一番面白いギャグ」にせよ、「一番面白くないギャグ」にせよ、その場にいた人びとの間ではまったく笑いは起きなかったかもしれませんが、その様子を見る私たち視聴者の側では「笑い」が発生しており、そのユーモアの形式としては共通していることには注目すべきところです。
「笑い」とユーモアの構造
番組の中でも山内志郎先生が「『笑い』は、メタコミュニケーション」という指摘をされていました。
これは「笑い」という一般的な通念上、考えるに値しないような「くだらない」(と思われている)ものに対して、学者が集結して非常に真面目くさって延々と議論を重ねたり、その結果作り上げたギャグがまったく笑えないという部分に、見ている私たちは「ズレ」を感じるということをあらわしています。
なぜ、私たちはここにズレを感じるかというと、学者が笑いやユーモアについて議論をしているという状況を私たち視聴者は外から見ていて、それが「メタ」(ひとつ上の高次の視点)から眺める形になっているからです。
このように、ユーモアには物事や出来事をメタ的に捉えるという役割や機能があり、メタ化して物事を捉えるところに私たち人間は「ズレ」や「ギャップ」を感じてそこから「笑い」という行動を行います。
もっとも、このように笑いやユーモアの構造を説明されても私たちは訳が分からず、そのことに対してはまったく笑えないわけです。
しかし、トリビアの泉で5人の研究者が実際に行っていたように、「笑い」という人間なら誰でもしている馴染み深い行動に、やたらと難しい概念や理論が必要となるというところにズレが生じて、そのこと自体がひとつのユーモアの形式になっているといえるのです。