日本独自の伝統行事「笑い祭り」の思想的背景

世界には数多くの「祭り」というものがありますが、その中でも日本だけの「笑い祭り」というものがあるのをあなたはご存じでしょうか。

この笑い祭りは、神様や神棚、ご神体に向かって「笑い」を奉納するという私たち日本人から見てもかなり特異に感じられる祭事です。

実は、世界広しといえど、このような笑いを主体とする祭りを行っているのは日本だけなのです。

いったい、どういう背景があってこのような笑い祭りが今でも執り行われているのでしょうか。

今回は、日本独自の笑い祭りを事例として取り上げ、その日本人ならではの思想的背景に迫ります

日本全国に現存する「笑い祭り」

日本には今でも「笑い」を神事の中心に据えた「笑い祭り」が行われています。

数ある笑い祭りの中でもっとも有名なものとしては、山口県防府市の大道小俣地区で800年以上も続けられている「笑い講」(わらいこう)です。

冬の時期に地域の人びとが当屋(とうや)の家に集まって神棚をつくり、そこで「わっはっは」という笑いを大声で3回繰り返す神事です。

このときの笑い講の様子は私も実際に防府市まで行って見てきましたが、笑うときには2人の講員が大きな榊を持って向かい合い、3回の大笑いを行います。

笑い講の詳細については、こちらの笑い講―防府市公式ホームページをご覧ください。

また、東大阪市にある枚岡神社では「注連縄掛神事」(しめかけしんじ)というものが行われています。

これは注連縄(しめなわ)を掛け替える12月に毎年執り行われている神事で、新しく掛け替えた注連縄に向かって神主と氏子が3回「わっはっは」と笑い声を上げるというものです。

この神事についても私が参加し、そのときの模様をこちらの腹の底から思いっきり笑える「笑い祭り」のページにまとめていますので、あわせてご覧ください。

さて、以上に挙げた山口県の笑い講と大阪府の注連縄掛神事という2つの笑い祭りは地理的にはかなりの距離がありますが、どちらも神様に向かって笑いを奉納するという形では共通しています。

なぜ、これほど離れた場所であるにもかかわらず、そのような共通する風習があるのでしょうか。

実は、その思想的背景には、古事記と日本書紀で語られている「天岩戸開き神話」が深く関わっているのです。

「笑い」が太陽を取り戻した日本神話

古事記および日本書紀では、「天岩戸開き神話」が伝えられています。

弟神スサノオの乱暴狼藉に怒った太陽神アマテラスが天岩戸に隠れたことにより、世界は闇に包まれてしまいます。

八百万の神々たちはどうしたものかといろいろと思案してさまざまな方法を試しますが、まったく出てきてくれません。

そこでアメノウズメがストリップさながらの踊りをするとそれを見た神々たちは大いに笑います。

自分が隠れて世の中が暗くなっているはずなのに、どうして楽しげな笑い声がするのだろうと気になったアマテラスが天岩戸から顔を出し、その隙にタヂカラオが天岩戸を開けてアマテラスを連れ戻したことで世界に太陽の光が戻ったという神話です。

このように、日本創世記の神話では「笑い」が太陽を取り戻したという物語が伝えられており、それが日本の風習としての神事に取り入れられているのです。

実際、日本の笑い祭りでは冬至の時期に多く行われていることからもそれを読み取ることができます。

冬至は一年のうちでもっとも日照時間が短い日として知られています。

日本は稲作を主体とする農耕文化ですので、太陽の光が短くなることはそのままそこに生きる人びとにとって命に関わる出来事となります。

つまり、もっとも太陽の日照時間が短い冬至の時期に笑いを主体とする祭りを行うということは、笑いの力で太陽を取り戻そうとする考え方が根底にあり、その源流として天岩戸開き神話が深く関わっているといえるのです。

「笑い」で神様をパワーアップして幸せにしてもらう

また、「笑い」を神様に奉納するという面にも日本独自のひとつの考え方が影響しています。

私たち人間は神様に自分たちの幸せを祈願しますが、それでも不幸な状態が続いたときに、昔の人は「神様の私たちを幸せにする力が低下している」と考えたのです。

では、神様の幸福にする力を高めるためにはどうすればよいのでしょうか?

そこで昔の人が考えたのは、神様に自分たちの元気な姿を見てもらってそこから幸福になる力を高めてもらおうということだったのです。

その自分たちが元気な姿とは何かというと、それがまさに「笑い」だったのです。

つまり、笑い祭りでは私たちが元気に笑っている姿を神様に奉納することで自分たちを幸福にさせる力をパワーアップしてもらい、そこから自分たちを幸せにしてもらおうという考え方につながるのです。

「笑う門には福来たる」という言葉がありますが、まずは自分たちが笑うことで元気になり、そこから福を呼び戻そうという考え方には、以上のような理屈がその背景にあるのです。