「笑い」がいつの間にか「お笑い」になっている
私が「笑い測定機」の開発を行っていたときのことです。
人間の「笑い」を分析するためには、実際の人間が笑っているときのデータを集める必要がありました。
その際、主に大学の学生の方に協力をしてもらい、笑いの実験というものを実施して笑いのサンプルとなるデータを収集していました。
笑いの実験では、当初、「笑ってもらうためには、当然笑いの刺激が必要だ」と考え、漫才やコントなどのバラエティ番組を収録した映像を見せて笑ってもらい、そのときのデータを取得することを想定していました。
しかし、それで準備をしていざ笑いの実験の場で学生の人たちにその笑いの映像を見せて笑いのデータを取ろうとしても、人によって面白さを感じる部分は異なるために、「まったく面白くない」「こんなものでは笑えない」という厳しい評価が返ってきました。
笑い測定機を開発するために人間の実際の笑いのデータが必要であるにもかかわらず、笑いの実験をしても笑いのサンプルが集められないという文字通り笑えない結果に終わったわけです。
「笑ってください」「では、笑わせてください」
次に私は、学生の人たちに笑い測定機を身に着けてもらった後、彼らに「それでは、笑ってみてください」とお願いをすることで、笑いのデータを取得することを試してみました。
そうすると、学生からは「何か面白いこと言って笑わせてください」という答えが返ってきました。
笑いの実験は協力してくれる人を変えて何度か繰り返していたのですが、こちらが「笑ってみてください」というと、ほとんど100%の確率で「では、笑わせてください」という返答が出てくるのです。
どの学生の人でも判を押したように同じような答えが返ってくるため、私はなぜそのようになってしまうのかをとても不思議に思っていました。
それで、なぜそのような返答になってしまうのかを考えたところ、どうやら私たちは「笑う」ということを「誰か」あるいは「何か」に面白がらせてもらって「笑わせてもらう」ことを当たり前のように考えてしまっているフシがあるということに気づいたのです。
事実、多くの人は、「笑い」という言葉を聞くと、その先頭部分にいつの間にか「お」がついて自動変換されて受け取ってしまい、テレビのバラエティ番組などでよく見る「お笑い」を思い浮かべてしまうのではないでしょうか。
みずから「笑い」を発するということ
私たち人間はたとえ面白さを感じていなくても、自分で笑顔を作ったり、笑い声を上げて笑ったりすることもできるはずですし、実際にそれは誰もが可能なことです。
とはいえ、多くの人にとってまったく面白くもないのに自分からわざわざ笑うというのはとても不自然な感覚がともなう気がすることでしょう。
ただし、その一方で、笑いやユーモアを駆使して対人関係を良くしたり信頼関係を構築したりしている人びとは、自分の方から相手に笑いかけたり楽しませたりする形でコミュニケーションを取っています。
このような人びとは、みずから積極的に「笑い」を行うことが他人にポジティブな影響を与え、自分にもそれが返ってくるという効果を熟知しており、それを実践しているのです。
「笑い」はみずから行う能動的な姿勢であるのに対し、いわゆる「お笑い」は自分の身に笑いが発生するまで待つという受け身の姿勢だといえるでしょう。
みずから積極的に笑いをつくりだす「笑うヒト」を目指されるあなたには、受け身で笑いが発生するのを待つのではなく、ぜひともこのような「笑い」と「お笑い」というものの違いをふまえた上で、「笑い」を生み出す習慣づくりをしていき、元気になったりコミュニケーションを円滑にしたり、さらには心身ともに健康になって頂きたいと考えています。